秋 の 例 祭
玖波の例祭は、十月第二日曜に、やっこの先導により神輿による渡御式が行われます。(前日には、獅子舞が町内を回り、夜には境内で神楽が行われます。)
やっこについて
玖波やっこは「陣入りやっこ」「城入やっこ」と呼ばれています。「陣入りやっこ」とは江戸時代参勤交代の際、本陣に入る時行われたやっこの振り方です。なぜ玖波のやっこが「陣入りやっこ」なのかといいますと、過去に玖波が宿駅として栄え本陣があったからです。また、広島城・岩国城に入る際に、先払いをしていたからです。
國郡誌によりますと玖波は天平の頃の山上憶良所縁の安芸国佐伯郡高庭駅ではないかと伝えられており、又、寛永10年、玖波鉾の峠に1里塚を築き、伝馬10頭を置き、寛永12年、参勤交代の制が定められた時駄賃1里につき銭18文として玖波駅が定められました。近辺の宿駅を示しますと次の通りです。
関戸→玖波→廿日市→広島→海田市→田萬里→本郷→三原→尾道→今津→神辺
又、廿日市より西では山陰と結ぶ道は玖波谷がメインで、海路にしましても江戸中期には大阪への廻船を7艘を備え大阪南横堀その他の問屋と取り引きをし、上方方面では、草津から大竹に至る佐伯郡一帯の廻船は、すべて玖波立ての名で呼ばれていたそうです。
以上のように玖波は交通の要衝として発展していきましたが、集積地の分散・他地域の交通網の発達、他地域の埋め立て・開拓が盛んに行われても玖波地区では様々な事情によりあまり行われず、次第に衰退し、更に長州征伐の時高田藩彦根藩によって、本陣「洪量館」に火がかけられたそうです。
それでも、先の大戦までは海軍が立ち寄るなど旅館・料亭など活気があったそうです。しかし、終戦後は、経済的にも行き詰まった状態のもと小方・大竹等と合併をし今日に至っています。
現在、私達は、あまり過去の事を考えることなく生活を送っていますが、玖波に住むからには玖波に誇りと愛情を持って生活すべきだと思います。その誇りと愛情を感じることのできる身近な物が玖波のやっこだと思います。そして、玖波にはやっこの他にも誇れる物がたくさんあります。それを皆で認識し大切に守っていかなければと思います。
やっこを振る時に次の様に声を出します。
インヨーヒー(箱)
インヨートマージ(中やっこ)
インヨーガヘノヘ(大やっこ)
この「インヨー」とは、陰陽つまり中国易学で、すべての具体的存在は、相反する二つの性質を持つ根元的なものの調和から生成発展消滅すると言う意味で、「ヒ」とは、霊=活力のもととなる不思議な力、「マージ」とは、交わるの意、「ヘノヘ」とは、舳先の方へと言う意味で、簡単に言えば、「すべてのものは、交わって行く事により前進して行く事ができる」ということです。
物質的に豊かになった現代こそ「人と人・人と物・人と事との触れ合いを大切にしていかなければならない時である」と聞こえる気がします。
玖波やっこは「玖波宿本陣 陣入やっこ」として、大竹市重要文化財(無形文化財)に指定され、保存会によって行われています。
万葉集巻第五 雑歌(ぞうか)
①
大典(だいてん) 麻田連(あさだのむらじ)陽春(やす)、大伴君(おおとものきみ)熊凝(くまごり)の為に志(こころざし)を述ぶる歌二首
884
国遠き 道の長手(ながて)を おほほしく
今日や過ぎなむ 言問(ことと)ひもなく
(故郷から遠く離れた長い旅路を、心も暗く今日死んでいくことか、親に何も言わずに。)
885
朝霧(あさぎり)の 消易(けやす)き我が身 他国(ひとくに)に
過ぎかてぬかも 親の目を欲(ほ)り
(朝霧のように消え易いこの身だが、他国では死にきれないことだよ、親にひと目会いたくて。)
②
山上臣憶良、熊凝の為に志を述ぶる歌に和(こた)ふる一首 短歌を併す
題詞
大伴君熊凝は、肥後国(ひごのくに)益城郡(ましきのこほり)の人なり。年十八歳にして、天平三年六月(みなづき)十七日に、相撲使 (すまひのつかひ) 某 国司(それのくにのつかさ)官位姓名 の従人(ともびと)と為り、京都(みやこ)に参(ま)ゐ向ふ。天の幸(さきはひ)あらず、路(みち)に在りて疾(やまひ)獲(え)、即ち、安芸国佐伯郡(さへきのこほり)高庭(たかには)の駅家(うまや)にて身故(みまか)りぬ。 終りに臨む時に長嘆息(なげ)きて曰く、「伝へ聞く、仮合(かがふ)の身は滅び易く、(中略)
哀しきかも我が父、痛ましきかも我が母。一身死に向ふ途(みち)を患(うれ)へず、ただ二親(ふたおや)の生(よ)に在(いま)す苦しびを悲しぶるのみ。今日(けふ)長(とこしなへ)に別れなば、いづれの世にか観(まみ)ゆることを得む。」といふ。乃(すなは)ち歌六首を作りて死ぬ。その歌に曰く、
長歌
886
うち日さす 宮へ上ると たらちしや 母が手離(てはな)れ
常知らぬ 国の奥かを 百重山(ももへやま) 越えて過ぎ行き
何時(いつ)しかも 京都を見むと 思ひつつ 語らひ居れど
己(おの)が身し 労(いたは)しければ
玉鉾(たまほこ)の 道の隈廻(くまみ)に 草手折(たを)り
柴(しば)取り敷(し)きて 床(とこ)じもの うち臥(こ)い伏して
思ひつつ 嘆き伏せらく
国にあらば 父取り見まし 家にあらば 母取り見まし
世間(よのなか)は かくのみならし
犬(いぬ)じもの 道に伏してや 命(いのち)過ぎなむ
( [枕詞:うちひさす])都へ上るために[たらちしや]母の手許を離れ、
行き慣れない他国のへんぴな国境を、幾重もの山を越えて過ぎゆき、
少しでも早く都を見たいと思いながら、仲間と話し合っているけれども、
我が身が苦しいので、
[たまぼこの]道の曲がり角で、草を手折り、
柴を取って敷き、寝床のようにしてその上に倒れてしまい、
嘆き伏しながら、思うことには、
「国にいたら父が看病してくださるだろうに、家にいたら母が看病してくださるだろうに。
世の中というものは、こんなにはかないものだったのか。
犬のように、道にはいつくばって、命が終わるのか。」
反歌
887
たらちしの 母が目見ずて おほほしく
いづち向きてか 吾(あ)が別るらむ
([たらちしの]母上に会えないで、心も暗く、どちらを向いて私はお別れしているのであろうか)
888
常(つね)知らぬ 道の長手(ながて)を くれくれと
いかにか行かむ 糧米(かりて)は無しに
(行き慣れない遠い旅路を、暗い心でどうして行けばよいのか、食糧も持たずに。)
889
☆家にありて 母が取り見ば 慰むる
心はあらまし 死なば死ぬとも
890
☆出でて行きし 日を数えつつ 今日今日と
吾(あ)を待たすらむ 父母(ちちはは)らはも
891
一世(ひとよ)には 二度(ふたたび)見えぬ 父母(ちちはは)を
置きてや長く 吾(あ)が別れなむ
(一生のうちに、もはや二度と逢えない父母を残して、永久に、私は別れて行ってしまうのであろうか。)