玖波 玖波驛 考
□ 中古代
資料や文献の乏しい地域の歴史を考える材料として大切なことは、その時代時代の地理・地形を見ること、そして、何らかの痕跡を見付け、両方を合わせて、その時代の人の考え方を想像してみることである。
玖波の駅について考える際に、山や谷や海に人の手が加わっていなかった時代の地形をみると、五日市以西に於いて、佐伯にある物資や人が沿岸部に移動するのに、ダムに沈んだ渡ノ瀬から松ヶ原を抜けて玖波に出るルートが一番低く、難所の少ない楽な道であった事が第一点目の事実である。(木場という小名が残り、この地が薪・材木の積出地であったことを示している。)
第二点目として、玖波の氏神大歳神社に神生石(みあれいし)という石の磐座(古代信仰において山や木や石などを神が宿った存在として崇めたもの)が在り、これは、神社の本殿などの社殿が建立される以前、いつか分からない頃から祭事を行える集落が存在していたことを示している。
第三点目として、玖波に唐船濱があり、倉橋と同様に隋のあとを受けて中国を統一した王朝(六一八~九〇七)である唐の船が停泊し、修理なども行っていたということである。また、応安四年(一三七一)の今川了俊の「道ゆきぶり」に津葉とあり、周防秋穂八幡宮旧記の応仁元年(一四六七)の記事に「久波津問丸」とあり、「中書家久公卿上京日記」の天正三年三月二三日の記事に「くはたとて町立有、是ハ舟を作所也、作おろさるゝ丹五拾二艘かハらはかりをすえ置たるハ数をしらす」とあり、当地は「くはた」と記きれ、船造りが盛んであった様子を伝える。このほか厳島回廊棟札写(大願寺文書)の天正五年四月吉日寄進のものに「津波」とみえ、「武家万代記」は「久芳」とも記している。以上のことも、玖波が海上交通・船舶の造営修理の要であったことの痕跡に他ならない。
第四点目として、火の子(見張り台を表す地名ともいわれている)から潮待ちの崎の間が恵川河口の遠浅な良好な入江であったことである。
律令の駅伝制は、公命を帯びて諸国に往来する官人の便宜に供する目的で設置されたもので、駅路と伝路から構成されており、駅路は、重要な情報をいち早く中央-地方の間で伝達することを主目的としていたため、路線は直線的な形状を示し、旧来の集落・拠点とは無関係に路線が通り、道路幅も六mを超えており(中央に近くなるとさらに広い道幅となり数十mとなった。)原則三〇里(当時の一里は約五四〇メートルで、三〇里は約十六キロ)ごとに駅家を設けていたとされているが、大同二年(八〇七年)の改制までは、播磨以西の山陽道には五一の駅家があり、駅間の距離は平均十三里程度であり、安芸の西では原則に基づいた広い幅の道路の痕跡も見られず、難所の多い地方では三〇里ごとの原則の通りの設置は出来なかったと考える方が自然であろう。伝路は、中央から地方への使者を送迎することを目的としており、各地域の拠点である集落を結んでいて、地方間の情報伝達も担っていたと考えられている。 安芸の西においては駅路と伝路の両方を設置することが困難な地域もあり、適切な距離の範囲内で駅家を設置したと考える方が合理的だったと考える。
また、駅には駅舎があり、駅長が一定の戸数から成る駅戸(えきこ)から選ばれ、人馬の継ぎ立て、宿泊・給食を処理し、駅長の下に、駅戸から徴発された駅子があり、駅馬をひき、また駅の維持のために駅田給され、駅戸が耕作に当たり、収穫される駅稲が駅便食料や駅馬買替料などにあてられ、駅子は大体百二、三十人だったと考えられている。だとすれば、駅が設置された郷には集落を形成した痕跡が必ずあるはずである。また、適切な距離の範囲内に集落があれば、駅戸も他所から連れてくるよりもそこを郷とするほうが適切な場合もあったのでは無かろうか。そうだとすると、地理・地形から、玖波は古くから集落が存在し、山間部との交流の拠点であり、海上輸送の拠点でもあったことは確かであり、地理・地形・人物の集散する場所は適所であり、玖波の小名に、駅を表す庭形・江解(えげ)の二カ所があり、合理的に考えて、ここに駅を設置していないと考える方が妥当性に欠けている。
まず庭形についてであるが、庭形は現在のメープルヒル病院の下手で恵川の西で、火の子の東に位置し、廿日市平良小学校近辺から考えると直線で約十四.五㎞になり、物資や人の流れ・火の子からの海や西側の情報・恵川河口の入江の船舶の情報などを収集しやすい位置であり、国郡誌に記述されている万葉時代(七〇〇年代)の高庭(こば)駅であったと推測される(大野など様々な説はあるが)。
次に江解についてであるが、江解は、現在の玖波小学校の下手で潮待ちの崎と馬ためしの間で、廿日市平良小学校近辺から考えると前空団地近辺・玖波小学校近辺の間が直線で各約七㎞になっている所である。九〇〇年代頃、鳴川の山と海岸線が近く、細長く狭い道を下ってきてやっと辿り着けたとの思いから遠い管のような道から解放された地域として遠管駅を置き、郷とし、「えんくだごう」と呼んだり、「くだのさと」と呼んだりしていたのではないだろうか。延喜式に出てくる遠管駅は他の駅の当て字のような感じの使い方ではなく、当時の人々が感じたままが表現されていると推測される。{遠管}→「えんくだ」を「えんげ」と読み替え→{遠下}→{恵下}→「えげ」{江解}と変化したと考えることが最も自然である。{遠管}を「おか」と読み{小形}「おがた」と推測するように言葉遊びは幾らでも出来ますが、地理的に無理があります。
因みに、「遠」は、一般的に、上に付くときは「えん」、下に付くときは「おん」と読むことが多い。
また恵川の入江に停泊せず、潮待ちの崎の東で大野の瀬戸の潮を待つ船舶の監視も行っていたのではないかとも思える。
元々、高庭駅・遠管駅を断定する資料や文献は見付かっていないにもかかわらず、碑を建てている地域があることを考えると、資料や文献が無くとも大竹市は碑を建てるなどして対抗することが必要であると思う。
口 伝
貞観十五年豊後守従五位に任ぜられ、下向し、高庭に着いた藤原鎌足七代末裔藤原公秀が高庭驛の管理地を所領にし、驛を潮待ち岬の北東に遷し、その駅を移設するために調を免除されたと口伝されている。 遠管驛は三代実録の貞観十七年十月十日の条に書かれている。
この口伝は、福島正則に所領三反を没収されて以来、西村家が驛の管理地を所領にしたことが広まれば、更なる没収を恐れて、他言無用とされていた。しかし、明治維新・農地解放などで所領を失っている現在公表しても差し支えないと思う。
参 照
玖波は、厳島社神領の一角として佐西郡の各港と結びついており、特に戦国後期は激減した同社領に残された数少ない経済拠点、資源供給地として重要な位置を占めた。
秋穂の正八幡宮が修造される際、安芸国西部の山間部・吉和で材木が切り出されたが、その仲介を玖波の問丸の「中務」という人物が行っており、「中務」は吉和に赴いて材木を切り出す杣人に代金を支払っている。このことから玖波に当時、吉和など安芸西部山間地域の杣人と木材の取引を行う問丸が存在していたことが分かる。
また、この時の木材は地御前から積出され、厳島の船で秋穂まで廻送されており、玖波が生産地や港湾都市と連関し、安芸西部の地域経済を担っていたことがうかがえる。
天文二十四年(1555)の厳島合戦により、厳島社の在地領主である神領衆の多くが没落したが、その中にあって玖波は弘治三年(1557)七月、毛利氏によって改めて厳島社大願寺に与えられている。大願寺は玖波で流通課税である「山海浮役」を徴収して厳島社の造営や毛利氏への公用の費用に充てており、玖波が商品としての材木、山林資源の重要な積出港であるとともに、厳島社に残された重要な資金源ともなっていたことが分かる。
源助崩れ
民話の背景
中世戦国の世、天文二十年(一五五一年)九月一日、山口を根拠に中国・九州七カ国の守護として威を張っていた大内義隆は、宿老「陶(すえ)隆房」の謀反により、長門の国大津郡大寧寺に囲まれ、自刃。ここに淋聖太子の子孫といわれる大内氏の正統は滅亡する。 陶隆房は、大内氏そのものを奪う気持ちはなく、義隆の姉の子で大友宗麟の弟、噂英を迎えて大内氏の当主に据えた。隆房は晴英の一字を与えられて「陶晴賢」と改め、晴英も義長と名乗った。大内氏に臣従していた藷豪たちは、陶の反逆の非を問い二年後、津和野の吉見氏が再三毛利氏へ、陶討伐に起つことを願いでた。 そして天文二十二年(一五五三年)五月十三日、連日の会議の結果、ついに元就決断を下した。 翌二十三年五月十二日、吉田に兵を挙げるや、精鋭三千を従え、佐東・五箇の庄(五箇の村=現在の広島)に向かつて南下、平定し、神領・廿日市の桜尾城(現在の桂公園)まで兵を進めた。 これに対し、陶軍は、宮川甲斐守房長を大将として、岩国の横山にある永興寺の宿営に七千の兵を集結。毛利討伐のため安芸の国に向かい、玖波まで進んだ際、毛利氏の情報撹乱(かくらん)戦術にあい、足止めされる。「大野・角山(かどやま)に、敵の伏兵あり」との報に進路を返し小方村より峠を越え、津田を目指さんとしたが、人馬とも原生林に行く手を阻まれ、七千の兵は立往生。 房長は、芥川弥三郎を呼んで、「汝、此れ道筋何れへ越すや、案内して潜み分けよ」と、いらだちを隠しきれず下知(げち)を飛ばす。
お話
多勢とはいえ、一揆まじりのにわか俄兵を集めた陶軍である。敏速な行動ができませんでした。
芥川弥三朗 、辺りを見渡すと煙が上がっていることに気付き、近寄り、怯える玖波村の炭焼き農夫3人に対し、「そこの者、津田の里道まで詳しく教ゆべし、そして案内せば褒美を申し与えるぞ、さもなくば、切り捨てる」と、刀に手をやり命じました。
喜んだ源助ら3人は、谷和から小栗林に下り、北の札ケ峠に来ました。源助たちは、芥川弥三郎を三倉・朝日岳の岩場まで案内し、「ここから人馬とも、たやすく通れ、一山越えればつたの里道にいけます。」と眼下をしめしました。
ところが酷いことに、「良く教えてくれた」と、案内した三人のうち二人を、一瞬のうちに切り捨ててしまいました。
源助はこれは大変と、この崖から一気に岩場を飛び下りたが、岩が崩れ落ちてついに命をおとしました。
人々は源助たちを悼み、この崖を「源助崩れ」と呼ぶようになり、約四百四十年たった今も、樹木生い茂るなかに岩肌を見せています。
【 堅石大明神と神生石 】
岩国の立石地区に、堅石大明神があり、地域の人々は、ある由来により、神蛇を御神体とあがめ、世々受継ぎ、春秋二回祭事を行い郷土の発展と守護を祈願し、現在に至っています。
その由来とは、前半が、「今を去る四百年前、この石は坂上の巌根(いわね)にありて四米余り霊石と云って郷人神と云われ、老若男女貴賊の別なく参詣の絶ゆることなく、又願望も叶わざることなし。昔、この石より血が流れ出たことありて、人々その霊魂の尊さに一層の信仰を深めたといわれている。」
そして、後半が、「文禄元年四月、太閤秀吉朝鮮征伐の折厳島に参拝し、大明神に征伐の勝利を祈れば、あら不思議や、海上に雲起こり飛龍出てきて神蛇二つ現れ、東西に別れ、その一つはこの堅石の内に、今一つは大竹市玖波の堅石に入られたと言い伝えられる。」と言うものです。
前半部分は、岩国の立石の堅石は、四百年前から坂上の岩盤地帯に在った巨石で、信仰の対象だったことを言うことにより、坂上から大変な労力を使ってわざわざ運び出し、移設したこの石は大変な霊力を持っていることを表しています。
後半部分は、太閤秀吉・飛龍・神蛇を登場させることにより、坂上から運び出した石の霊力・神秘さを印象付け、玖波の堅石に勝るとも劣らない信仰の対象であることを表しています。
この文章を考えた人に、勝るとも劣らない信仰の対象であると思わせた玖波の堅石とは?と考えた時、玖波の大歳神社が美和町や厳島と、関係が深かった点、信仰の対象としての石という点で、「神生石」以外には有り得ないだろう。と私は、結論づけます。
□ 近世代
「秋の例祭」の「やっこについて」に代えます。そちらをご覧下さい。
参照
江戸時代の岩国藩士が藩と近郊の出来事をつづった「岩邑(がんゆう)年代記」に、
嘉永6(1853)年9月11日の部分に「薩州姫君様、昨夜高森泊にて、今日大橋御廻りとあり、錦帯橋そばで小休止したことや、篤姫の結婚が町で評判になっており、その夜は久波(玖波)御泊の由」と記述されている。
二十二歳の吉田松陰は、嘉永四年三月九日、前日宿泊した高森を暁を破って出発して欽明路峠を越え、城山々麓北を御庄を経て関戸越しをし、その夜玖波に泊まっている。