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遷宮の略歴

初めての遷宮

 神宮の最も古い姿は、祭祀ごとに神を仰ぎまつる「神籬」や神霊の依代となる施設(四方に青竹や榊さかきを回らし、中央に幣ぬさを取り付けた榊を立てる。等)を設けて、天照大御神をお祀りしていたと考えられる。
 この施設が神宮へと大規模に改められたのは、今から一千三百年前、持統天皇四年(690)に内宮、同六年(692)に外宮で初めて行われた式年遷宮の時と言われている。


役夫工米による遷宮

 平安時代の中期以降、朝廷が衰微して律令制度が破綻し始めると神宮の御師は、荘園の一部である御厨・御園を確保し、公私の祈祷を行って資財を募り始める。
 また、遷宮の経費は「太神宮役夫工米の制」が制定され、全国にわたって定率の税を命じるようになり、役夫工米の制による式年遷宮は重大な国家の大事業となり、遷宮は国民挙げての祭祀であると言う意義が加わり、神宮崇敬の念は遷宮ごとに高まりをみせる。この制度で室町時代に至るまで約二十回の遷宮経費を賄なっている。

遷宮の中断と復興

 平室町時代後期になると、役夫工米による遷宮費の徴収が困難になり、約百二十年あまりの間中断せざるを得なくなる。やがて安土・桃山時代になると、慶光院清順・周養の勧進によって織田信長・豊臣秀吉が遷宮費用を献納し、復興することになる。

  信長公記 巻十五

天正十年正月廿五日
於伊勢太神宮、正遷宮三百年以降退転、御執行之無、今の御代に以上意再興仕度之趣、
上部大夫、堀久太郎を以て被申上候、
何程之造作にて可調と御尋ね之処に千貫御座候はば、其外は勧進を以て可仕と言上候、
其時御諚には、去々年、八幡御造営被仰付候に、三百貫可入と候つれ共、千貫に余りて入申之間、中々千貫にて不可成候。
民百姓等に悩(なやみ)を懸けさせられ候ては不入之旨被成御諚、先三千貫被仰付、其外入次第可被遣旨にて、平井久右衛門為御奉行、上部大夫に被相加候へき。
正月廿六日
森乱御使にて、濃州岐阜土蔵に先年、鳥目一万六千貫被入置候、定而縄も腐り候はん之間、三位中将信忠より御奉行を被仰付、繋直し正遷宮入次第被成御渡候へと御諚也。

 式年遷宮そのものは正親町天皇の永禄六年(1563年)九月に順番に則って外宮の遷宮が実施される予定(神宮全体では101年ぶり、外宮のみでは129年ぶりのことになる)だったけれど、財政上の理由から内宮の式年遷宮は実施されなかった(この間、内宮は仮殿・儲殿遷宮を繰り返すことになる)。
 天正十年(1582年)織田信長は両宮に対して造営費用三千貫を申し出て同年二月に息子の織田信忠を経由して寄進が行われている。また、神宮の権禰宜であった上部貞永を造営奉行に任命している。 ところが六月の本能寺の変によって信長・信忠がともに死亡したため、先送りとなる。
 天正十四年(1584年)、今度は羽柴秀吉(豊臣秀吉)が上部貞永を介して黄金二百五十枚を寄進したことにより、遷宮再開すると、内宮・外宮ともに自己の造営を優先するように働きかけを行うようになった。
 内宮・外宮ともに当初は上部貞永を通じて秀吉への働きかけを行っているが、秀吉は造営そのものには関わらない態度を示したために、天正十三年(1585年)に入ると正親町天皇に上申を繰り返すようになる。
 坂本城にて吉田兼見らと会見した秀吉は天皇が内宮優先の意思を持っていることを確認した上で、内宮を優先することで、天正十三年十月十三日に内宮の遷宮が、二日後に外宮の遷宮が実施される。

 江戸時代もこうした敬神の念は徳川将軍家に受け継がれ、造営奉行に命じて式年遷宮の全面的な協力にあたらせる。

国民総奉賛の式年遷宮

 明治時代に入ると古制の精神に復し、造神宮使庁が官制として設けられ国家の儀式として斎行されたが、戦後の第五十九回式年遷宮(昭和二十八年)はGHQの神道指令によって国家の手を離れ、国民の奉賛に主軸が移行して行われるようになる。その後も、奉賛会と神社本庁を中心とする全国の神社の努力により、広く国民の力を結集しての式年遷宮が続いており、「国民遷宮」・「民間遷宮」として定着していることと、天皇陛下の御聴許を得ることにより大御心を体して行われる本義に基づく儀式であることの両方の意味を持っている。
 

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